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皆さんこんにちは。
2008年度(平成20年度)の大阪弁護士会副会長職も、残すところあと3か月となりました。今年度は就任早々から橋下知事の法律相談委託料無料化要請と法曹人口問題という難題に直面し、改めて会内合意の難しさを実感しました。
私自身の担当は、刑事弁護、裁判員制度、可視化実現、人権擁護、労働、司法などですがいずれも課題は多く、とりわけ来年5月に向けての裁判員裁判と拡大被疑者国選の対応は万全の体制で臨む必要があります。
裁判員制度と取調の可視化については、従来刑事弁護を熱心に行ってこられた先生方からも根強い批判があります。裁判員制度について指摘される問題点自体は私もその通りだと思いますが、だからと言って、従来の官僚的刑事裁判に戻るのが正しいのでしょうか。私は、批判は批判として改善の努力を重ねつつも、一方では被疑者・被告人の為に、最善の弁護活動を尽くすべきだと思っています。
また取調の可視化についても代用監獄温存を前提としているものではありません。代用監獄も撤廃し、かつ、身体拘束下の取調は可視化せよ、というもので、この2つの要請は決して矛盾しません。取調可視化と代用監獄撤廃が矛盾するならこの2つを日本政府に要請した国連人権規約委員会も矛盾していると言うことになりますがそんなことは決してありません。この2つの要請は国際的なレベルからしても当然の要請と言えるのです。
さて、このような話はしょっちゅう行っていますので、あとは紙面(正しくは「メールの画面」と言うのかな)の関係上、今、問題となっている「殺意」の話をします。 |
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裁判員制度を前に法律用語を市民に分かりやすく説明する必要があると言われています。それはそれで良いのですが、今、実際に問題になっている事の一つに「殺意」の説明があります。具体的には「殺すつもりは無かった。相手が『死ぬ』なんて望んでいなかった。刺す瞬間は頭が真っ白になってしまった」との被告人の弁解で問題が浮上します。このあたりはお馴染みの「未必の故意」の議論ですね 。
従来は、被告人がこのような弁解をしても先ず通りません。
「死を望んでいない」と言うなら確かに確定的故意は無いかも分からんけど、未必の故意はあるんとちゃうか、というわけで、凶器・部位・態様等の外形から「認容」を認定して「殺意あり」としてきたわけです。ここで言う凶器・部位・態様等はあくまで事実認定の手法であって、殺意の概念としてはあくまで、「死」の認識・認容がいるとしている点がポイントです。
それはそうですよね。「死」の認識・認容がありながらその規範的障碍を越えて行為を行うから「殺人」の責任は重いのであって、逆に「死」の認識・認容のない「傷害(致死)」はその分殺人よりも責任は軽いわけですね。
つまり、「死」の認識・認容のない「殺人」なんて考えられません。
ところが最高裁判所はこの11月に、殺意の概念を「人が死ぬ危険性の高い行為をそのような行為であると分かって行った」(A)と認めることが出来れば「殺意と法的に評価しうる心理状態があると認定するのが一般的」(B)との司法研究報告を発表しました。(A)をよく見て下さい。ここには「死」の認識はありません。この報告は、従来の故意の概念とは全く異なるのです。
もっとも、最高裁は(B)という何やらややこしい表現を付け加えています。この意味は、故意の概念を変えるのかとの批判を想定して、あくまで心理状態の事実認定の問題(従って故意の概念を変えているわけではない)としているわけです。
しかしどうでしょうか。市民たる裁判員には,(A)だけを説明するのです。これでは、殺意(故意)の概念に「死」の認識はいらないと思うのでは無いでしょうか。
ウィリアム・テルの逸話を思い出して下さい。子どもの頭の上に乗せたリンゴを矢で射るという有名な話です。ウィリアム・テルには子どもを殺すつもりなど毛頭ありません。矢はあくまで子どもの頭の上のリンゴを狙っているのです。しかしこのとき万が一ウィリアム・テルが誤って子どもの頭を射抜いて殺してしまったとしたらどうでしょう。ウィリアム・テルには子どもを殺すつもりは全くなかったのですから、本来は「過失犯」です。しかしウィリアム・テルのこの行為が「人が死ぬ危険性の高い行為」と認められたら、最高裁判所の説明概念だと、危険行為は認識しているのですから「殺意有り」とされかねません。
いやいやウィリアム・テルには子どもが死ぬなんて思ってないよ、と言われるかもしれません。正しい反論です。そこには、殺人と言うには、「死」の認識がいると言うことを当然の前提としているからです。にもかかわらず最高裁の説明概念だと「死」の認識が無くとも「殺意有り」とされることになります(ちなみに、ウィリアム・テルの行為には危険性はないという反論は無しですよ。ここでは、危険性のある行為として例にとったのであり、且つ、ウィリアム・テルの行為に危険性が無ければそのエピソードは残らないでしょう)。
長々とウィリアム・テルの話を続けましたが、私の言いたいのは、最高裁の説明概念は必要以上の重罰化を生む危険があるということです。
現に12月13日に生放送として放映されたNHKの裁判員制度の特別番組において、裁判官と市民を交えて模擬裁判を見た上での模擬評議が行われましたが、そのとき市民の方の意見は最初は「被告人には殺意は無い」というものでした。しかし、現職裁判官の前記(A)の説明のもとに、やがて市民の方は当初の考えを変えて、最後には被告人の殺意を認めるに至ったのです。
まさに重罰化の一例です。
しかも事もあろうにNHKは、市民の方をして「法律用語は日常用語と違うのですね」と言わしめていました。これでは市民感覚を入れるどころか、市民は裁判官の説明をよく聞け、と言わんばかりです。
NHKは2重のミスリーディングをしていると言っても過言ではないでしょう。
余談ですが、私はこのとき、偏向的放送とも言えるNHKに対してファックス文書を送信したのですが、全国からファックスが殺到したためか私の文書がなかなか受信されず、ようやく受信されたときには番組はほぼ終わりでした。これでは私の文書は生放送中には読まれていない。実にけしからん話です。
ちなみに最高裁の司法研究は他にも責任能力、正当防衛、共謀共同正犯、少年法55条の保護処分相当性という概念を最高裁判所なりに説明しています。
市民の感覚を取り入れるどころか、市民を啓蒙するという匂いがぷんぷんしています。
そして、重罰化の危険です。私達はこの最高裁の司法研究報告に声を上げて批判していかねばなりません。 |
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少し長いメールの挨拶になりました。役員になりますと、色々な情報に接します。私はどんな時でも人権感覚を忘れず、おかしいことはおかしいと伝えていきたいと思っています。
残る期間も会務に邁進していきますので、最後までどうぞ宜しくお願いします。
本日はクリスマス。2008年もあと一週間です。
皆様良いお年をお迎え下さい。 |