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はじめに |
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綾辻行人氏ら10名に及ぶ推理小説作家を輩出した京都大学推理小説研究会(略称京大ミステリ研)は1974年に京都大学内で設立されたサークルである。
1974年5月29日(注1)は、京大ミステリ研設立並びに結成集会を呼びかけた歴史的な日であるが、突然、京大キャンパス内に貼り巡らされたポスターの謳い文句は次のようなものであった。
「シャーロック・ホームズが君を呼んでいる」
1週間後の6月5日、そこに「シャーロック・ホームズ」の言葉に惹かれた多くのミステリ好き京大生が、京大教養部の一室に集まった。
私は、この1974年に京大法学部に入学し、同時に京大ミステリ研設立に参画し、1981年3月京大卒業までの7年間、同ミステリ研に在籍したものである。自分で言うのは口幅ったいが、京大ミステリ研を構築した一人である(注2)。
私は、1980年に司法試験に合格し(注3)、司法修習を経て、1983年から大阪で弁護士になったのであるが、この1983年頃までは何かと京大ミステリ研に出入りしていた。
そして、私がその10年間に出会った素敵な仲間達から、多くのミステリ作家が誕生したのであり、このことは実に嬉しい限りである。
推理小説作家の誕生は、本人達の才能・努力が実ったことはいうまでもない。
しかし、京大ミステリ研の独特の風土が、少しばかりは影響を与えたことも間違いないであろうし、そこにはシャーロック・ホームズの存在無くして語れないことも事実である。。
本稿は、そのシャーロック・ホームズと京大ミステリ研の風土を伝えることを目的とするものである。 |
2. |
私のホームズ体験 |
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さて、京大ミステリ研の時代を伝える前に、まず私のミステリ体験をのべる。私は、小学校1~2年生頃からの、少年探偵団とシャーロック・ホームズに始まる。少年探偵団はテレビ、漫画が最初であるが、シャーロック・ホームズはポプラ社20巻シリーズである。小学生時代はそのポプラ社を中心にルパン、ファントマ、その他のミステリへと続く(注4)。
そして、中学生になって創元推理文庫に接し、クリスティ、クィーンその他の本格派に心酔し、あわせて新潮シャーロック・ホームズにも触れる。山中本との違いに驚くとともに、長沼弘毅氏の「シャーロック・ホームズの知恵」も購入する。この「知恵」は、とにかく子どもの身には大変高かったと言う記憶があり、これは今でも宝である(注5)。
更に高校生になって、早川ポケットミステリと、そしてこの時期に初めて日本のミステリを読むようになる(例外は先の通り「乱歩」であるが)。
要するに、私のミステリ体験はシャーロック・ホームズに始まるいわゆる海外ミステリ中心の本格派にどっぷりとつかったのである(注6)。
そのため私は、本格派の同好の士を求めていた。これが私自身の京大ミステリ研を作りあげる大きな動機となる。 |
3. |
1974年の社会背景~時代の転換点 |
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(1)私一人だけでは京大ミステリ研は出来ない。設立には多数の仲間が集まっのであるが、では京大ミステリ研が出来た1974年はどのような年であったか簡単に振り返る。
前年1973年のいわゆるオイルショックを受けて、不況が続く年である。
そして1974年の主な出来事は次の通りである。
①東南アジアで、日本の経済侵略反対の反日デモが相次ぐ(1月)。
②小野田元少尉がルバング島より軍人の姿のまま生還する(3月)。
③公労協のスト権奪還ストが行われる(4月)。これは、翌75年国鉄ストと共に、逆に労働運動衰退の節目となる。
④金権政治と言われた田中内閣退陣とともに、「クリーン」と言われた三木内閣が登場する(11月)。この時以降、自民党はまさに「小刻み内閣」となる。
⑤読売巨人の長嶋茂雄選手が引退する。「ジャイアンツは永遠に不滅です」の言葉は余りにも有名である(10月)。
(2)要するに、1974年は政治・労働・文化・スポーツと色々な意味で「転換点」となる年であったのである。
それは同時に人々が「変化」を求める下地を社会的に有していた、と言える。
1974年はまさにそのような年であった。 |
4. |
1974年のミステリ界~本格再ブームの直前期 |
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(1)では1974年の推理小説界はどうであったか。実は本格派は押され気味であり、松本清張などの社会派が優位であり、その状況はこのころも続いていたのである。
丹波哲郎、加藤剛主役で大ヒットした映画「砂の器」は1974年のことである。まさに松本清張の時代が続いていたと言えよう。
(2)このころのミステリは、社会派以外のいわゆる本格派といわれる作家は西村京太郎、斉藤栄、森村誠一、和久峻三などが書店的には主流であった。
海外物を読みたくとも主流は創元推理文庫と早川ポケットミステリしかなかった。
推理小説専門誌は2誌であり、「小説推理」と「早川ミステリマガジン」である。早川ミステリマガジンは海外物中心であるが、そこで本格モノが紹介されるものの、実際の作品そのものにはなかなかお目にかかれなかいという、いわば欲求不満をかき立てる状況であった。言い換えれば、貴重な本格モノはなかなか手に入らないのである(注7)。
私達本格ファンは、本格ミステリを求めて古本屋巡りをするのであるが、どの古本屋へ行っても、早川ポケットミステリは、「007」と「0011」(注8)ばかりであるというのは当時を知る人にとっては有名な話である。
(3)この1974年は、我がシャーロック・ホームズ・クラブ(1978年設立)は、無論、設立されてはいない。その契機となる色々なシャーロック・ホームズ物が数多く出版されるのは1977年のことである。
要するに、シャーロック・ホームズに限って言えば、この1974年ころは日本では、「長沼モノ」くらいしかなかったのである。
(4)ミステリファンならご承知の通り、この1974年以後、日本ミステリ史上に残る、いわゆる横溝正史の大ブームが来る。
角川春樹事務所が、角川文庫とタイアップして(注9)、横溝正史ミステリ映画第一弾「犬神家の一族」を上映するのは、1974年の2年後、つまり1976年のことである。石坂浩二扮する金田一耕介のこの映画が大ヒットし、以後、横溝正史ミステリブームが爆発する。
そして同時に、本格派が復権しブームとなるのである。
相前後して、高木彬光推理小説全集、鮎川哲也推理小説全集なども刊行される。
ミステリ専門誌として、今や伝説と言われる「幻影城」の創刊や「ルパン」など専門誌の刊行も相次いだ。シャーロック・ホームズものが幾つも出版されるのも前述の通りである。
しかしこれらは、1974年の2年後以降のことであった。NHK「そのとき歴史が動いた」風に言えば、1974年は「大ヒット『犬神家の一族』上映まで、後2年」なのである。
(5)要するに、1974年ころのミステリ界状況は、本格ブーム直前であり、ミステリファンが、本格派に飢えていた時代だったと言えるのである。
私もその一人であった。 |
5. |
京大ミステリ研の設立~本格派の結集 |
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(1)そのような時代背景のもと、1974年に、盟友板東浩一氏の呼びかけに私大川が呼応し、京大ミステリ研を設立することになる。
集まった主なミステリ好き京大生は「本格派」であった。しかしその中身は色々であった。
①本格推理小説の名作を手に入れたい人
②本格推理小説を語りたい人
③本格推理小説をさらに広げたい人(自らの創作も含む)
こういった人に分かれたのである。
①のマニアは日々、「ノックスの『陸橋』持ってますか」「カーの『密室講義』もってますか」などなど名作と言われつつも手に入らないミステリの情報交換についやする。
②のミステリ談義に至っては、始まると「夜が更ける」と言う状態である。「夜は甘く」我々のミステリ談義も甘かった。ミステリの共通の知識をもち、数々の引用やそれをもじっての洒落た会話を出来る相手がいるというのは、実に痛快な事である。
③は、私にとっての衝撃であり、自分でミステリを書いてみようと言うマニアが少なからずいたことは驚きであった。これは、私にとっては「新鮮な」衝撃であり、その影響を私は受ける。つまり私も創作に走り、そして私にとっての実質的な創作第一号は「ナイト捜し」であり、これは私にとっても思い出深い作品となる。
無論、いわゆる本格派以外のミステリファンも集まった。
しかし結果としては、いわゆる本格派ファンが京大ミステリ研に残ったのである。
本格派といえどもその好みは多様であり、また濃淡がある。
とはいえ、ばらばらでありつつも残ったメンバーの共通項はあった
設立ポスターのうたい文句が「シャーロック・ホームズが我らを呼んでいる」であることは先に述べた。即ち、京大のあちこちに貼ったポスターに惹かれ、シャーロック・ホームズ好き(ないしはシャーロッキアンでなくとも、ホームズに熟知しているもの)が集まったのである。
集まったメンバーがミステリ談義をしたことは述べた。その一つのテーマは「本格推理小説とは何か」である。当時よく言われていたのは、「発端の謎、中断のサスペンス、結末の意外性」或いは「謎と論理のエンターテインメント」であるが、更に進んで私達は、そもそも本格推理小説の不可欠たる要素は何か、といった議論をするのである。
創設期のメンバーの一人であり「論敵」であった我が友、松田一郎氏(注10)は、エラリー・クィーン好きであり、クィーンのような「論理」に比重を置いていた。「論理」無きものは、広義のミステリではあるかもしれないが、「本格派」とは言えない、と言うのが松田氏の持論であり、シャーロック・ホームズの「論理」は飛躍的すぎる、と批判していた。松田氏は知性的であり、その論理の運びもまさにクィーン・ファンに相応しい。穏やかでありながら、譲らないところも持ち合わせるというすこぶる魅力的な人物であった。
確かに「アフガニスタン帰り」は100%の論理で導かれるわけではない。しかし、私はこういう「大胆な論理」こそ、それ自体が意外性を呼ぶ「本格派」そのものである、と反論していた。
このように書くと、松田氏は、シャ-ロック・ホームズ嫌いと思われるかもしれない。しかし、実際は違う。野球で言えば「アンチ・ジャイアンツ派」が誰よりも、読売ジャイアンツを意識しているように、松田氏ほど、シャーロック・ホームズに熟知している者はいない。氏は言う。「それは『赤ら顔』の当てずっぽうだ」「それはまあまあ『ノア橋』の論理クラス」「しかし所詮『靴の泥』ですからね」などなど、氏との議論には、聖典を熟知していないとついて行けないのである。「所詮『赤ら顔』」という言い回しは、一時期、京大ミステリ研を席巻した流行語ともなった。松田氏は、とある人の発表した作品のその「論理」が飛躍しているときに、その批判として「それは『赤ら顔』だ」と批判したのである。
同じく創設期のメンバーで理科系の頭脳派、堀由紀男氏は、正当派シャーロッキアンであった。かれはホームズをこよなく愛し、ホームズをモチーフにした小説、エッセイを数多く、京大ミステリ研において発表している。
最初の言い出し人、板東氏は、シャーロック・ホームズに始まる正当派ミステリ・ファンでああり、ホームズ好きであることは改めて言うまでもないであろう。この板東氏こそが、「シャーロック・ホームズが君を呼んでいる」と書いた人物なのである。
かくて京大ミステリ研に結集し、残った我々はシャーロック・ホームズを意識しつつ、本格派談義に明け暮れたのである。
(2)1974年の京大ミステリ研設立後、私が初代編集長となりミステリ研をリードしていった(注11)。
では京大ミステリ研は何をしていったのか。
京大ミステリ研には専用のボックスは無かった。そこで、ボックスを持っていた既存の「文学研究会」に対して、私達が交渉し、「ミステリも広い意味での文学の一部であろうから」とか何とか言って、週一回だけ専用で貸してほしいと頼み込み、その了解を得たのである。そして、毎週水曜日にボックスに集まり、「読書会」と「犯人当て」を行うというシステムを確立したのである。
ボックスはその後、私達が100%「乗っ取る」のであるが、それは、本稿とは関係ないのでその経過は省略する。
そして会員向け通信誌として「ミステリ研通信」を発行することとし、外部向けには同人誌「蒼鴉城」を発行することにした。この外部向け「蒼鴉城」は
後にプロとして活躍する数多の作家のアマチュア時代の作品が綺羅星の如く並んでいる。
同誌は、1年に1号の発刊であり、2009年時点で(35年の歴史を数え)最新号は「35号」となっている。
更に私達は、年一回の京大の学園祭「11月祭」にカレー・ショップとして「アガ茶クリス亭」を出店し、一般客にカレー・ライスを振る舞うとともにここでも一般向けの「犯人当て」を行った。私達はそれほどまでに「犯人当て」が大好きであった。
ちなみにこのネーミングはクリスティ・ファンの存在を物語るが、京大ミステリ研出身にて後に児童文学者になる立石章氏(注12)はアガサマニアの一人りである。
京大ミステリ研は、夏、春には、合宿を行い、そこでは「マーダーゲーム」(注13)などを行った。
また他大学へも、あれこれ交流を求めてあちこちの大学へ行った。これほど「行動的なミステリ研」というのもまず少ないであろう。多分…。
このように私達は実に色々な事をしてきた(注14)。
(3)このような京大ミステリ研において、シャーロック・ホームズは皆のヒーローであったことは否定しえない。私が、編集長を務める間、会員向け機関誌「京大ミステリ研通信」の裏表紙は、全て「ガス灯に浮かぶ横顔」のイラストを書いた(「知恵」に書かれているような感じです)。
今やマニアに復刊・発売を望まれている「蒼鴉城」も同じである。
裏表紙はシャーロック・ホームズ。
誰もが分かる永遠のヒーローを書いたのである。無論、「アガ茶クリス亭」の客寄せのポスターにも。(ポアロを模した「ひげ」が大きかったけれども…)
かくて、ホームズの横顔は、初期京大ミステリ研のトレードマークとしたのである。 |
6. |
京大ミステリ研(オリメン期)の特徴~他に無い極めて特異なサークル |
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前項で京大ミステリ研のおよその活動を述べた。
すでにおわかりのように、私達京大ミステリ研は、数ある他の大学のミステリ研とは全く違う大きな特徴を持っていた。
京大ミステリ研が、他のどの大学とも違う特徴を持っていることは、後に島田荘司氏が、綾辻行人氏のデビュー作において後書きに書いてもらっている。 その島田氏の指摘した部分も含めて、京大ミステリ研の特徴は、次の通りである。
①本格へのこだわり
京大ミステリ研に残ったメンバーはいずれも本格好きであった。
本格とは何かとの議論などに没頭したことは前述の通りである。
②犯人当て(小説)の実施
途中で「読者への挑戦」を入れて、実際に、考えてもらうという、いわゆる「犯人当て」は、自分たちだけでも月1回のペースで行い、それだけではなく、学園祭でも模擬店を行う中で来店した客へ「犯人当て」を行ってきた。
(こういうスタイルは、他の大学のミステリ研では全くないことであり、京大ミステリ研においても、私大川の関係する約10年くらいで終わった)
③創作好き。
犯人当ては無論のこと、ミステリの創作が好きであった。もっとも、私自身がそうであったように、ミステリ研に入会してから触発された会員も少なくないが、結果として、みんな創作するようになる。
④論理は、論理学的論理でなく「シャーロック・ホームズ」的論理、との共通項があった。無論、松田一郎氏のような、エラリー・クィーン派がいたことも事実であるが、彼が実際は、シャーロッキアン顔負けのSHの読み手であることは前述のとおりであり、結局は、みんな「エンターテインメントとしての論理」が大好きだったのである。
⑤ディベート好き。
これこそ極めて希なる集団と言えよう
だからこそ、数少ない人数の中から、多くの「法曹」と「推理作家」を生んだのである。
まとめていえば京大ミステリ研は、エンターテインメントとしての論理と意外性(いかなる手段を使ってでも)を追い求め、ディベートを楽しむという、他のサークルにない、独特の風土を生んだのである。
前述の①~⑤は極めて大きな特徴であり、後にも先にも京大ミステリ研の最初の10年のようなサークルはまず出てこないであろうと思われる。
島田荘司氏はこれらの特徴の内、②③が、京大ミステリ研の他の大学に無い特徴としてして紹介してもらっている。
では、京大ミステリ研では、どのような犯人当てであり、どのような創作であったのか。 |
7. |
いかなる犯人当てなのか~SHと意外性 |
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(1)私達は「犯人当て」が大好きであった。
私達が「犯人当て」好きだったことは繰り返し述べた。
ではどのような「犯人当て」であったのか。当時は今のようにパソコンも無ければ安いコピーも無い時代。犯人当ては、口頭で読み上げて行なった。それゆえ、自ずからその字数は限られ「ショートショート」クラスの短さでそれなりの作品を作らねばならなかったのである。
ではその内容は、いかなるものであったか…。
歴史的な第一作は、1974年の夏の合宿で、シャーロッキアン堀氏が発表した。題して「沈んだパセリ」(注15)。
ご存じ「シャーロックホームズ」から題材を取っている。
真相は、その日が「暑い日」であることに気付けば解けるというものであるが、その「正当派論理」とともに何と言っても、第一作の意義は計り知れない。しかもそれはSHに由来をおいてものだったのである。
続く第二作は、真相が見破られた上、しかも回答者の指摘により「論理」に穴があったことが分かったため、作者は、記録から抹消してほしい、と述べた。
この第二作は、記録からは抹消されているため、評価されていないけれども、実際は、ディベートの面白さ(本格好きの皆さん。作品の「あら探し」ほど面白いものはないでしょう)を私達に知らしめたのである。「犯人当て」は面白い。そして、回答発表後の「ディベート」も面白い、と。
しかし、続く第三作担当者に大きな課題が残った。何故なら、第一作、第二作とも、聞き手が猛者のような本格マニアにはそのトリックが見破られてしまったのであり、しかも第二作には、論理の「穴」を指摘された。
しからば、論理に穴はなく、しかも回答者を騙す「犯人当て」は出来るのか。
その三番手は私であった。
私は、何としてでも、猛者のようなメンバーを(松田氏を、堀氏を、板東氏を…そして全員を)引っかけてやろうと考えていた。
その為には、ワトスンへの「信頼」を「引っかけ」の材料にしようと私は考えていた(ご存じ「ワトスン博士は女であった」。つまり「叙述トリック」である)。そして実際に常に「犯人当て」をどうするか考えていたのである。
ある時、斉藤栄氏のとある作品を読んでいたときに、突然一瞬にして閃き、「犯人当て」の全容を思いついたのである(注16)。
私は、仲間に対し、「みんなを、絶対に引っかける」と予告した。「ゲームは始まった」のである。
それが第三回犯人当て「ナイト捜し」であった。
(2)私自身は、いかなる手段を使ってでも引っかけるという気構えでいた。
実は私自身は、「ワトスン博士は女であった」(視点の問題と男女の引っかけ)のトリックは大好きなのである。
さてその影響も受けての「ナイト捜し」。
この作品を発表したときは、全員引っかかったものの「アンフェアではないか」との批判の嵐であった。
どんな「アンフェア」か。作品そのものは講談社で是非お読み頂きたい。
従って、作品の内容そのものには触れない。
しかしながら、当時のマニアをも引っかかる作品であった事は間違い無いのである。
2009年夏、ミステリ専門誌「メフィスト」に綾辻行人氏により拙作「ナイト捜し」を掲載して頂いた。それは、今、単行本「綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー2」(講談社)に収録されている。
そこで綾辻氏は、新入会員として京大ミステリ研に入部したときに、当時いかに「ナイト捜し」に衝撃を受けたかを述べている。
有り難いことに35年前に「アンフェア」と批判された作品は、今日ではむしろ評価されているのであるが、オリメンとは違って、京大ミステリ研の後輩諸氏には大きな影響を与えたようである。
読者の皆さんも是非、拙作を、講談社「綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー2」お買い求めて読んで頂ければと願っています。
話を元に戻す。ミステリマニアと言えども、拙作「ナイト捜し」で提示したような「叙述トリック」はこの時代には全く受け入れられていなかったのである。だからこそ、京大ミステリ研でも批判が生じた。
叙述トリックの使い手とされる作家達が登場するのは、かなり後の事なのである。
このようにいうと拙作は「アンフェア批判」だけされたのかと思われるかも知れないが、実際は、批判しつつその「衝撃」を正面から受けてくれたのである。だからこそこの拙作は或る意味でこの作品をみんなが大事にしてくれた。
そして綾辻氏らはこの作品などに刺激を受けて、作家への道へと進んでいくのである。
(3)私達の作った京大ミステリ研であるが、新入生がその後も続いたのは実に嬉しい限りであった。
「犯人当て」を継続したことは前述の通りであるが、いつの頃からか、京大ミステリ研に入部する新人に対して、「犯人当て」として、私大川の「ナイト捜し」をいきなりぶつけるということを始めた。つまり京大ミステリ研に入部していきなり本作の先例を受けるのである。
この衝撃については、前記「綾辻行人と有栖川有栖のミステリ・ジョッキー2」の中で綾辻氏が触れているので是非お読み頂きたい。
このように京大ミステリ研に入部する新入会員は、いずれも最初の最初の衝撃から、視点、叙述トリック等をはじめとし、あらゆる場面での「意外性」の深化へと続いていくのである。これが後の、日本ミステリ界の「新本格」につながるのである。 |
8. |
京大ミステリ研出身作家の登場~素晴らしき仲間達 |
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(1)私が弁護士となった(1983年)のと入れ替わるように、各大学のミステリ研が島田荘司氏と接するようになり、島田氏は京大ミステ研とも親しくなった。そして、京大ミステリ研のエース綾辻氏は島田氏にその才能が認められ、作家としてデビューした。
その報に接したとき、私としてこれほど嬉しいことは無かった。
綾辻氏の第一作は、まさしく私達京大ミステリ研の作風そのものであり、それは京大ミステリ研のデビュー作と言っても過言ではなかった。
「新本格」。綾辻氏のデビュー作には、日本ミステリ上に残る華麗なる肩書きが入れられたのである。
綾辻氏の作品は面白かった。それは実際には、綾辻氏の本来の才能によるもの以外の何者でもないのだが、何かしら私が嬉しいと思った一端に、京大ミステリ研代表という思いを感じたのも正直なところである。
いずれにせよ京大ミステリ研から作家が出たというのは本当に嬉しいことであった。しかもその嬉しいことは、綾辻氏以降も更に京大ミステリ研出身の作家が多数相次いだのである。
(2)さて京大ミステリ研出身作家を列挙すると以下の通りである。
すでに10人デビューしている。
①綾辻行人(1979年入学)……教育学部。
②法月綸太郎(1983年入学)……法学部。
③小野不由美(1980年入学)……大谷大学。
④我孫子武丸……文学部。
⑤中西智明……同志社大学。
⑥麻耶雄嵩……工学部。
⑦巽昌章(1976年入学)……法学部。
⑧清涼院流水……経済学部。
⑨大山誠一郎……法学部。
⑩円居晩……経済学部。
のだが)。
それぞれに、本来の作風はあると思うが、生み出された作品としては、その殆どはいわゆる本格派であった。
多様なミステリのジャンルのある中で、京大ミステリ研出身作家がこれだけ、本格優位であることは、明らかに京大ミステリ研の風土の影響を受けていると言えよう。
それだけに創始者の一人としては実に嬉しいものがある(注17)。 |
9. |
素晴らしき京大ミステリ研の世界 |
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いまや日本のミステリ界では、綾辻行人氏をはじめとして、新本格派がひとつのジャンルを築いていることは誰も否定しえないであろう。
ではこの新本格派はいかにして生まれたか。
すでに述べてきたことから明らかであろう。
シャーロック・ホームズが、京大ミステリ研を生み、そして私の「ナイト捜し」を生んだ。
この「ナイト捜し」が、若き日の綾辻氏らへ影響し、そしてそれが新本格派の誕生となったのである。
そうであれば、日本の、新本格派はまさにシャーロック・ホームズが生んだと言っても決して過言では無いだろう。
そうである。
日本ミステリ界の新本格派はシャーロック・ホームズが生んだのである(注18)。
(注1)この日はチェスタトン生誕120周年の記念の日でもある。
(注2)正確に言えば、一番最初に、京大ミステリ研を作ろうと発案したのは、後に親友となる板東浩一氏である。
(注3)京大ミステリ研からは、私の後に、実に多くの司法試験合格者が続いた。一つのサークルから、推理作家と法律家をこんなにも多く輩出したサークルは京大ミステリ研しかない。
(注4)ご存じ山中峯太郎、南洋一郎である。
(注5)今回改めて確認すると、実際は380円である。この「知恵」を読んだときの衝撃は忘れらず私にとってシャーロック本の原点である。いや実際に原点なのであるが。
(注6)日本の本格派にも良い作品は幾つもあったのであるが、それに気付くのが遅かった。いかに当時は社会派全盛であったかを物語っている。
(注7)当時早川ミステリマガジンに「書店紹介コーナー」があり、ミステリを扱うマニア向けの書店が紹介されていたが、私が実際にそこに行っても、時すでに遅しで一足早く売れた、と言うのが少なくなかった。
(注8)ジェームズ・ボンド・シリーズの向こうを張った「ナポレオン・ソロ」を主役とするスパイ物であるが、若い人には分からないかも知れない。
(注9)今日、小説と映画などのタイアップというのは何の目新しさもなく、むしろ、そのタイアップが当たり前という状況であるが、かつてはそういった一体となって宣伝するという発想は全くなかった。その意味でもこの角川方式は大きな反響を呼び、後には、この手法はむしろ当たり前となっていったのである。
(注10)彼は現在大阪高検の検察官であり、弁護士たる私の今なお「論敵」である。
(注11)「編集長」が実権が強い為、「書記長」が実権を握る社会主義国と同じかといわれたものである。
(注12)作品に「勇太と死に神」(講談社)など。
(注13)マーダーゲームとは、参加者にカードを配ってそれにより、「探偵役」「犯人役」「その他」がきまる。この配役は、カードを引いた本人以外分からない。次に、部屋の電気を消して、全員目隠しをする。「犯人役」だけがこのあとこっそり目隠しをとり、部屋の真中の凶器(と言っても新聞紙を丸めたモノ)をてにして誰でもいいから、その凶器(新聞紙)で「殺す」(つまり新聞紙で叩く)、「被害者」は、声を上げて倒れる。「探偵役」が頃合いを見て電気を付け、部屋の明かりをつけ、また、目隠しをはずすように指示する。「探偵役」は質問する。「犯人役」は自由に嘘をつけるが、「その他」役は嘘はつけない、というルールのもとに真相を見破るというゲームである。
(注14)現在は、かなり縮小しており、学園祭に顔を出しても、部屋で「蒼鴉城」を売っているだけである。
(注15)「6つのナポレオン」参照。
(注16)無論、私が思いついたのは、斉藤栄氏のその作品と全く違うものである。しかし、「ワトスン・トリック(叙述トリック)」との組み合わせで思いついたのであり、アイデアというのは、全くジャンルの違うもの「衝突」から生まれるというある種の「法則」を彷彿させる。
(注17)本稿は、2009年12月5日に「仏滅会」で発表した講演を元にしている。そのときに、本稿に関連して2つの質問の受けた。一つは「『新本格』とは何ですか」というものである。それに対する、私の答は次の通りである。「その答は3つあります。一つ目は、社会派をはさんでの、弁証法的『正・反・合』の世界です。弁証法的には最初の本格派とは違うわけです。二つ目は、単純に、従来、本格派に批判されていた『人間が描けていない』などその他の批判も受けて「原始本格派」時代の欠点を克服した本格派というものです。三つ目は、単に、本格派の騎手というだけではインパクトが弱いので、講談社が、営業的に『新本格』と名付けたという理由です」
2つ目の質問は、「綾辻さんなど作家のデビュー前のアマチュア時代の作品が読みたいので、『蒼鴉城』を復刊発売してほしいのですが、そういうことはしないのでしょうか」との質問(要望)である。私の答は次の通りである。「綾辻さんらは、学生時代の作品を言わば『リメイク』してより素晴らしい作品にして皆さんに提供していますし、またこれからもしていきますのでそちらを楽しみにして下さい。加えて、著作権者が一杯いますのでその点からも『蒼鴉城』そのものの復刊発売は難しいです」。
このやりとりは、後に綾辻さんに報告しており、まず間違いないと思われる。
尚、新本格とは何か、については他にも諸説あり、「新本格派は熱烈なミステリファンで、内外の推理小説を熟読してきた人たちである」という有力説もある(戸川安宣)。
(注18)我が「論敵」松田一郎検事は、拙稿のこの結論を読んでこう言うであろう。「所詮『赤ら顔』の論理だ」と。 |