大川法律事務所
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最高裁判決の補足意見の意義
  小泉靖国参拝違憲訴訟最判2006・6・23 滝井繁男補足意見を例にして
1.  三審制をとっている我が国における判決は、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所など、色々な審級における判決がある。
 しかし、最高裁判所における判決のみが、他の審級の裁判所の場合と違って各裁判官の「意見」が表示され、他の「判決」は、合議体(複数の裁判官で構成する裁判所のこと)の場合に、各裁判官で意見がわかれたとしても、判決においてはそのような意見の違いは表示されることはなく、結論しか表示されない。我が国の裁判所法は、11条に最高裁について「裁判書には、各裁判官の意見を表示しなければならない」と規定し、逆に最高裁判所以外の場合には、合議体の裁判における評議の内容・各裁判官の意見については、秘密を保持することを要求している(裁判所法75条2項後段)。このような評議の秘密の規定をおいたのは、自由な意見の確保や裁判の権威を守る為等の理由が挙げられている。
 従って、最高裁以外の裁判においては法廷の意見とならなかった個人的見解などは公表されない。
 では、最高裁判所だけがなぜ違うのか。英米ではむしろ個々の裁判官が裁判の理由を述べるのが原則で戦後アメリカの影響を受けた日本の裁判制度も最高裁判所だけはこれにならって個別意見の表現を取り入れた。そして、最高裁で意見を表示するのは最高裁判所裁判官の国民審査の資料とする為とされている。
2.  先に述べた理由から、最高裁判所のみが、各裁判官の意見の表示があるが、その「意見」には、「法廷意見」「補足意見」「意見」「反対意見」に分けられる。「法廷意見」は多数意見ともいわれ、その裁判の結論の意見を示す。「補足意見」は「法廷意見」に賛成する立場から、さらに付随的な事項や念のための説明などを付け加えるもので、「法廷意見」を補強しようというものである。「意見」は、一般的には「法廷意見」の結論に賛成するが、理由付けにおいて意見を異にする場合である。そして「反対意見」は「法廷意見」の結論にも反対するものである。
 以上が、各裁判官の「意見」の別であるが、最高裁判決を読む場合、法廷意見のみを読んでいてはいけない。
 「補足意見」「意見」「反対意見」を読むことによって「評議」が推測され、「補足意見」等を読み込むことによって結論としての「法廷意見」の内容が補充され、また、最高裁が、文字にはしなかったが、その真意を「行間」から読みとることが出来るのである。
 次項に、その具体例として2006年6月23日小泉靖国訴訟最高裁第二小法廷判決における補足意見の読み方を解説する。
 マスコミは、この判決に、法廷意見の結論のみにしか着目していないが、この判決は、実は、この「補足意見」こそ出色なのである。
3.
1)  小泉首相が靖国神社を公式参拝したことに対する国家賠償請求訴訟(いわゆる小泉靖国訴訟)の初の最高裁判決が2006年6月23日に出された(最高裁第二小法廷)。同種の小泉靖国訴訟は各地で提訴されており、地裁と高裁で1件ずつ違憲判決が出ていたことから、最高裁判決が注目されるところであった。しかし、同日の最高裁判決は「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではないから、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとして、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。上告人らの主張する権利ないし利益も、上記のような心情ないし宗教上の感情と異なるものではないと言うべきである。このことは、内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社らを参拝した場合においても異なるものではないから、本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったといえない。」という理由によって実に簡単に(合祀と政教分離原則という争点からすれば直ちに想起される著名な自衛官合祀拒否訴訟最高裁判決すら引用せずに)上告棄却したのだが、この判決には、注目すべき滝井繁男裁判官の補足意見がある。滝井裁判官の補足意見は、以下の通り5項に分かれる。
(1)請求の要約
(2)私人間における自由の侵害が法的保護をもつ場合について
(3)政教分離規定の意義
(4)法的保護を受けられる追悼の自由について
(5)相関関係説における被侵害利益について
以下、項を改めて順次論ずる。
 
2)  上告人らの要約について
 法廷意見も上告人らの請求を要約しているが、補足意見は、法廷意見とは違って損害賠償の根拠を「上告人らの心の平穏を害し不快の念を抱かせるものであるとして」との要約をしている。補足意見は、法廷意見と結論は同じであるから、上告人らの請求の要約を異にする理由はない。どちらも「等」と入れていることからそれぞれの要約自体に誤りがあるわけではないが、補足意見のこの要約は、後述の通り、法的保護を求める利益や政教分離規定の解釈の導入につながる伏線になっているのである。
 
3)  私人間における自由の侵害が法的保護をもつ場合について
 まず私人間の問題について補足意見は次のように述べる。

「2  言うまでもなく、他人の行為によって精神的苦痛を受けたと感じたとしても、そのすべてが法的に保護され、賠償の対象となるわけではない。何人も他人の行為によって心の平穏を害され、不快の念を抱くことがあったとしても、それが当該行為をした人のもつ思想、信条、信仰等の自由の享受の結果である限りそれを認容すべきものであって、当該行為が過度にわたった結果それぞれのもつ自由を侵害したといえるものとなったとき、初めて法的保護を求め得るものとなるのである。」

 ここで、①(侵害行為が)過度にわたること②その結果それぞれのもつ自由を侵害すること、という点が注目される。
 但し、引き続いて、本件で問題としているのは「他人の神社への参拝行為」であるから、その人の自由に属することゆえ、「他人の自由を侵害するというものではなく」としている。
 〈問題としている行為〉が、「他人の神社への参拝行為」であるゆえ、他者への侵害が認められない、というのは逆に言えば、〈問題としている行為〉が別の行為であれば他者への侵害が認められる可能性が示唆されている。法廷意見との要約の違いが、ここにきて意味を持ってくる。つまり「心の平穏を害し不快の念を抱かせる」場合に何でもかんでも損害賠償できるわけではないが一定の場合に法的保護を求めうる可能性を示している。
 これは後述する第二の意義へつながる。次いで政教分離規定について補足意見はふれる。
 
4)  政教分離規定について
 学説上、解釈の分かれる規定であり、補足意見もいわゆる「人権説」は採用せず、制度的保障説をとっている。これだけを見れば、従来の判例と変わらないようにも見えるが、わざわざこの項を設けて指摘したというそのこと自体が極めて重要である。補足意見はまず次のように言う。

(イ)  「我が国憲法は政教分離を規定し、国及びその機関に対しいかなる宗教活動も禁止しており、この規定は、それがおかれた歴史的沿革に照らして厳格に解されるべきものであると考える。」

このように、法規の意義を述べたのであれば、次いで、具体的に本件ではその法規に照らしてどうなるかという「あてはめ」が続くと思うであろう。そうでなければ法規の意義をとく理由はない。ところが、補足意見は、本件のあてはめをすることなく、いきなり次のように言う。

(ロ)  「しかしながら、この憲法の規定は国家と宗教とを分離するという制度自体の保障を規定したものであって、直接に国民の権利ないし自由の保障を規定したものではないから、これに反する行為があったことから直ちに国民の権利ないし法的利益が侵害されたものということはできないのである。この憲法の規定は信教の自由を保障するためのものであり、国やその機関が宗教的活動をすることは、その宗教と異なる宗教を信じる者に心理的圧迫を加えることからこれを阻止するという意味をもっているとしても、国の行為によって上告人らが受けたという心理的圧迫は不特定多数の国民に及ぶという性質のものにとどまるものといわざるを得ず、それは法的保護の対象になるものとはいえないのである。」

つまり整理すると次の通りである。 (イ)政教分離規定は厳格に解されるべきである。
(ロ)これに反する行為があったことから直ちに権利侵害とはならない。  どう考えても(イ)と(ロ)の間に「これに反する行為があった」と読むのが普通である。つまり補足意見が(イ)(ロ)をわざわざ述べたのは、本来、(イ)と(ロ)の行間に、(イ)の憲法解釈をもとに本件を「あてはめ」れば小泉靖国神社参拝は「違憲」であることを物語っているのである。     そう考えれば、わざわざ、政教分離規定の解釈に及んだ3項の書き出しが注目される。つまり、ここでも、法廷意見とは違う上告人の要約が政教分離規定の解釈を論ずる為の導入となっているのである。
 つまり、法廷意見とは違う、冒頭の上告人の請求の要約が、ここでもさりげない伏線となっているのである。
 しかも、法廷意見に自衛官合祀拒否訴訟最高裁判決の引用のないことや「補足意見」というものが基本的に法廷意見と同旨であるという意味からしても、この「補足意見」の考えは、多数意見や同旨と推測されるのである。
 
5)  追悼の自由について
 補足意見は更に次のように言う。

「4  私は、例えば緊密な生活を共に過ごした人への敬慕の念から、その人の意思を尊重したり、その人の霊をどのように祀るかについて各人の抱く感情などは法的に保護されるべき利益となり得るものであると考える。したがって、何人も公権力が自己の信じる宗教によって静謐な環境の下で特別の関係のある故人の霊を追悼することを妨げたり、その意に反して別の宗旨で故人を追悼することを拒否することができるのであって、それが行われたとすれば、強制を伴うものでなくても法的保護を求め得るものと考える。」

 ①その人の霊をどのように祀るか等の感情などが法的保護に値すること、②侵害に強制の要素を要しない、としている点が極めて注目される。そして更に引き続き「そして、このような宗教的感情は平均人の感受性によって認容を迫られるものではなく、国及びその機関の行為によってそれが侵害されたときには、その被害について損害賠償を請求し得るものと考える。」としている。
 ここでも、「平均人の感受性」によっての認容を否定しているところが注目される。尚、主体が、国らであるが、これは3項(政教分離規定の意義)に続くものゆえ、国らとしているだけであって、国・地方公共団体に限定する趣旨とは解されない。そして、その上で補足意見は「しかしながら、上告人らは本訴においてそのような個別的利益を主張しているものではないのである。」としているのである。
 この「しかしながら」以下について何を言っているのか分からないと言う人がいるが、ここのところは何も難しいことを言っているのではなく、前述の政教分離規定の場合と違って行間を読む必要もない。「そのような個別的利益を主張しているのではない」と言う個別的利益とは、文脈のまま直前の箇所を「そのような」と指していると見るべきである。つまり、その前に補足意見の指摘する「意に反して別の宗旨で個人を追悼する」等の場合に被害を受けるような利益を「そのような個別的利益」と示している。そうであれば、この最高裁判決の対象となった訴訟は、直接の合祀そのものを問題にしたのではなく、合祀している靖国神社へ参拝した小泉首相の行為を問題にしたのであるから、いわば当たり前の指摘をしているのである。
 確かに、上告人らは、「合祀拒否」等を求めているのではないことから、補足意見に言う「そのような個別的利益」を主張してはない。このことは、「個別的利益」の主張いかんでは、請求が成り立つことが示唆されている。
 
6)  相関関係説について
 本稿とは直接関係はないのでこの意義は省略する。
 
7)  以上の通り、滝井補足意見は、行間に、小泉靖国参拝が違憲であることを示唆しているという意味で画期的なものである。これは第一の意義である。
 しかも、滝井補足意見は、直戴に、靖国神社に対して合祀拒否を求める可能性も示唆している。これまで述べてきたことを整理すれば、合祀拒否の可能性について補足意見の前記2項と4項を組み合わせれば、次のようになる。 ①緊密な生活を共に過ごした人への敬慕の念から
②意に反する追悼は拒否できる(靖国の合祀は拒否できる)。
③その意に反する追悼(靖国合祀)が過度にわたり、
④その結果それぞれのもつ自由が侵害されるとき
それが拒否できる。  「過度」「緊密な生活を共に過ごした人」という要件の内容や「拒否できる」ことが、妨害排除請求まで認められるのか、それとも損害賠償請求に留まるのか、補足意見の文意だけでは不明であるが、少なくとも、靖国神社に対する合祀拒否(合祀取下)の請求の可能性は読み取れる。これが第二の意義である。
  滝井裁判官の補足意見は、以上の2点で、極めて注目すべき補足意見と言えるのである。
 尚、違憲をストレートに言わなかったのは、判決で、結論に影響しない事を傍論で言うにはいかないから、「行間」に書くのが精一杯だったのである。「行間」とはいえ首相の公式参拝を違憲と判断すること自体が注目すべき大事件だろう。また第二の意義については、実際にその後2006年8月大阪地裁に靖国神社に直接合祀取消を求める訴えが新たに提起された。
 
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